Search this site
<< 地震のあとで その1 | TOP | ゆでたまごバンザイ >>
地震のあとで その2
宮部みゆきはすごいなとつくづく思う。

三島屋変調百物語(重い過去を持つ三島屋の縁戚の娘、お初が訪れる人々の不思議な話を聞く物語)の
「くりから御殿」を発表したのは2011年6月22日発売のオール讀物。

少年時代にすさまじい山津波が村を襲い、家族も幼なじみも亡くしひとりぼっちになってしまった長治郎。
夢の中、誰もいない自分の家の中で幼なじみの気配を感じ、目が覚めるとその子らの亡骸が次々と見つかる。
そして40年、もう一度夢の中の家に戻った長治郎だが、妻のお陸が可哀想だから来てはいけない。
一度もどれと言われて三島屋にやってきたのだった。

長治郎の、一人だけ生き残ってしまった悲しみ、後ろめたさ、辛さを吐露するシーンは落涙せずにはいられない。

東日本大震災のリアルタイム中継を見てしまった人々は、北海道にいても沖縄にいても東京にいても
あれだけのすさまじい災害にあってしまった人々と自分を引き比べてひどく後ろめたかった。
朝ドラ「あまちゃん」の中で「東北の方々があんな事になっちゃって」と仕事も手につかぬ、という台詞。
自分が何も出来ない事を思い知らされるという感覚。
事態が少し落ち着けばそれぞれやれることがわかってくるのだけれど、当面はフリーズ。
当事者でない人間があれほどショックを受け後ろめたさを抱えたのだから、現実に家も無くし、家族や友人、仕事仲間など
多くを失なってしまった方々は、呆然とする中で自分が生き残ってしまった悲しみや後ろめたさやどれほど複雑な苦しみを抱えていただろう。。

宮部みゆきは地震から3ヶ月後に、生き残った人々に向けて何にも出来なくても生きてていいんだ、
どうか生きて下さいとぐいぐいと全力で書いていた。
災害からまだそう間もなく、読むには息苦しいほどに悲しい話だったけれど、宮部氏の覚悟というか、作家にしか出来ない事を
彼女は全力でやっていた。

私の2011年は年明けから最悪な体調だった。前年始めに父が死に、それはそれは面倒な手続きや挨拶をこなし、自宅転居し、
検察審査会のメンバーとして毎月裁判所に通い、でも風邪一つ引かずに乗り切ったのに。
1月に突然の良性発作性頭位性めまい。続いて重症の五十肩、自律神経失調症の様々な症状。
そこに地震と原発事故でもしかすると最悪の事態になれば東京にも住めなくなるかもしれない。
被害に遭った方々にわたしの出来ることと言えばせいぜい募金をする程度のこと。
滑り出しは最悪。治療の甲斐あって肩痛が引き、なんとか気を取り直した時にはもう秋になっていた。

あの災害に私は殆ど何も支援できなかったのに、たくさんのことを学ばせてもらった。

子どもは育ち上がり社会貢献出来る能力も無いけれど、自分の事しか考えられないけれど
ちゃんと生きよう。しっかりとちゃんと生きよう。
自分に出来ること、というにはあまりに身勝手なかんじだけどあの地震以来私の中にずっとある。

15年前始めたもののすでに8年ほどブランクを開けてしまった銅版画にふたたび取り組み始めて4年。
今秋多摩美術大学80周年事業で開催された国際ミニプリント・トリエンナーレ展2015に拙作が入選。
作品は多摩美術大学美術館で保存して下さるという。こんなに光栄で嬉しいことはない。
目も手も少しずつ衰えてきていつまで続けていけるかわからないけど、本気で造り続ける。

来年は大きな個展を予定しています。



instagramやってます。syakobonで探してね!

泣き童子 宮部みゆき三島屋変調百物語3 2013/文藝春秋
posted by えみちゃん | 09:28 | よむよむ | comments(0) | - |
コメント
コメントする